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山科・醍醐の史跡

醍醐寺

天智天皇陵 醍醐の桜で有名な醍醐寺

醍醐寺は豊臣秀吉の「醍醐の花見」でも有名な古都京都を代表する観光名所です。世界文化遺産にも登録されています。

醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音(じゅんていかんのん)並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けたことにはじまります。その後、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に発展しました。

しかし、その後応仁の乱など相次ぐ戦争で下醍醐は荒廃し、五重塔しか残らないありさまであったようです。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに紀州などからの寺院建築の移築や三宝院の建設などにより今日見るような姿となっています。

花見の時期となる4月には全国から多くの観光客が訪れます。

醍醐寺
醍醐寺 三宝院
■豊臣秀吉(1536~1598年)

尾張(愛知県)出身。足軽として織田信長に仕え、しだいに重く用いられた。信長の死後、1590年、小田原の北条氏をうち、天下統一をなしとげた。秀吉主催の醍醐の花見は有名。

琵琶湖疏水(びわこそすい)

琵琶湖疏水の桜
桜の時期の疏水の様子

幕末の動乱で京都市中の大半が焼け、明治維新と東京遷都によって京都市の人口や産業も衰退したため、当時の京都府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的として、当時まだ大学を卒業したばかりの技術者「田邉朔郎」を任命し設計・監督にあたらせました。

第1疏水は明治18年に着工し、5年後の明治23年に完成しました。日本初の水力発電所なる蹴上発電所も建設され この電力を用いて京都・伏見間に日本初の電気鉄道も開通しました。

疏水は山科の区民にとっては馴染みが深く、桜の季節には花見客で賑わいを見せます。

琵琶湖疏水
琵琶湖疏水
■ 田辺朔郎(1861~1944年)

京都復興のため、知事北垣国道とともに琵琶湖疏水工事を行い、1890年に難工事のすえ完成させた。

大石神社

大石内蔵助像
大石内蔵助像

忠臣蔵のモデルである赤穂事件において討ち入りをした大石内蔵助良雄ら赤穂義士を祀る神社です。社地の附近は、元禄14年7月から15年9月まで大石内蔵助が京都に隠棲し、義挙の議をめぐらしたときに居宅を構えた地でり、主君の仇討ちという大願を果たした祭神に因み、「大願成就」の神徳で信仰を集めています。

春には大石桜と呼ばれる枝垂れ桜が豪華な花を咲かせます。また内蔵助の閉居跡は隣の岩屋寺にあり、手植えの梅も残っています。

毎年、12月14日には、「山科義士まつり」が開催され、討ち入り装束に身を固めた義士隊の行列がまちを練り歩きます、地元の祭りとして山科区民の楽しみとなっています。

大石神社
大石神社
■ 大石良雄(1659~1703年)

内蔵助とも呼ばれる。播磨国赤穂藩(兵庫県赤穂市)の家老。藩主浅野氏の切腹後、一時山科に身を寄せていた。1702年、四十七人の義士をまとめて、仇討ちを決行した。

坂上田村麻呂(さかのうえ たむらまろ)の墓

坂上田村麻呂は東北地方の蝦夷平定に力を尽くした平安初期の武将です。801年に征夷大将軍として多数の軍勢を率い、ほとんどの蝦夷をしたがわせ、翌年東北地方平定に成功しました。田村麻呂の墓が山科にあり、隣接する勧修小学校の校歌にも「田村のもり」として登場することで生徒たちや地元の人たちに知られています。

坂上田村麻呂の墓
坂上田村麻呂の墓